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「リヒト・カオス」
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友達が「盲目の人に贈る花束」というタイトルの日記を書いていた。フラワアレンジメントの仕事をする彼女は、先日お客さんに花束を頼まれ、いつも通り可愛く見えるように色鮮やかな花を選んでいると、お客さんがおっしゃったそうだ。「良い香りの花を入れて欲しいのですが」。店頭にある花の中に特に香りの強い花はなく、唯一のユリは香りがキツイのではとお客さんがおっしゃるので、「あまり香りにこだわらない方が・・・」、というと、「実は、目の見えない方に差し上げるので香りのよいお花をと思って・・。」、と予想外の答えが返ってきてドキっとしたそうだ。彼女は今まで視覚でばかり花をとらえていたので、その出来事はとても衝撃的だったそうだ。そして、その後彼女は、五感で感じられる花束を色々と模索するのだった。
私はある老人のことを思い出していた。それから昔住んでいた家、幼い私、裏の空き地、チョークの匂い、遠い記憶・・・いろんな断片が畳み掛けるようにやってきて、ふわっと25年前にタイムスリップした。幼い頃は、生家の裏の空き地でよく近所の子らと遊んでいた。裏に住んでいる盲目の老人が、そこをよく通りかかった。当時の私は両親以外の大人という大人が苦手で、前から歩いてくると物陰に隠れしまうほど極度の大人恐怖症だった。何故だかわからない。今の私はいわゆる「大人」という存在が醸し出す整然とした雰囲気や、知ったような語り口や、白黒正さなければならないような見えない圧力のようなものが嫌だったのだろうと想像するけれど、当時の私がそこまで考えていたとは思えない。ただ、本能的に恐かった、というだけのことかもしれない。
そんな中唯一、裏に住む盲目のおじいさんの持つ特有の雰囲気は大好きで、度々近所の子とおじいさんを探し回った。おじいさんは杖をついていたけれど、身の回りのことは一人で何でもこなしていた。目は閉じたままだけれど、本当は何でも見えているのではと思えたほどだった。私はおじいさんの所に色々な物を持っていって当てっこするのが好きだった。「おじいさん、これなーんだ。」といって猫を差し出す、するとおじいさんは私が抱く猫をゆっくり撫でて、「簡単だよ、これは猫だな。」といって笑った。ボールや縄跳び、花火やチョーク、何でも当ててしまうのだった。私はおじいさんが鼻を近づけたり指をひと撫でしただけで当ててしまうことに毎回驚かされた。
「すごーい、おじいさんは魔法使いと違う?」
今思うと、目の不自由な人に対して不謹慎なことをしていたと思うけれど、当時の私は匂いや手触りだけで物をとらえてしまうことに心底感動し、おじいさんとのやり取りを無邪気に楽しんでいたのだった。視覚以外で物事をとらえることが出来るのだと、はじめて学んだ出来事だったように思う。
幼い私は度々おじいさんの真似をして目を閉じたまま歩いてみた。瞼の裏側に太陽の光が虹色になってグルグルまわり、形があるようでないものが次々と見えてくる。これがおじいさんの見えている世界なのかな。彼はその混沌とした世界に、匂いや触感によってどんな対象を創り出していたのだろう。その曖昧模糊とした世界を、何が見えたと言葉で表現できないことに、子供の私はある種のもどかしさを感じていた。その光のマジックのような現象は、リヒト・カオスというらしい。それを知ったのはつい先日、串田孫一著「呟く光と翳」を読んでいたときのこと。「瞼のある動物ならば、みんな不思議な綺麗な色の踊りを知っているのだろうか。」と、幼き頃まぶたの裏に映る光の混沌の虜になった著者のエピソードの中で、そのはじめて聞く「リヒト・カオス」という名を目にしたのだった。光の混沌。著者はそう直訳するけれど、リヒト・カオスを表現する日本語はないらしい。
今となっては、私たちが視覚でしっかり捉えていると感じている現実は、目を閉じたときに見える光の混沌と同じくらい曖昧なものなのかもしれない、と思う。私とあなたが同じものを見ていると信じていても、それは光の混沌ほど多様で少しの角度で移ろうようなものだとしたら・・・だとしたら、それが美しいとか切ないとか愛しいとか、同じものを感じ取っていると感じられることがどれだけ素晴らしいことだろうか。
おじいさんと一緒に目をつぶって感じた、猫のフワフワした毛の感触や柔らかい体つきが手のひらに蘇る。目の中でとらえたイメージこそ違うかもしれないけれど、おじいさんと私は同種の何かを感じていたのだろう。薄目を空けて目の端でとらえた彼の表情はとても穏やかだったので、嬉しかったことを今でもはっきりと覚えている。
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